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十二所神社 [日高の先人]

 十二所神社は豊岡市日高町松岡の社である。

十二所神社 承久2年、後鳥羽院第3皇子・雅成親王、但馬高屋村に配流さる。御妃・幸姫、懐妊の身にて御跡を慕い、松岡村に辿りつき、俄に皇子を分娩されるも偶ゞ老ばの虚言により、道長く険しきを悲しみ、生れたばかりの皇子を石の上に寝かせ、死後南風になり高屋に達しましょうと、円山川に入水された。御骸は松岡村に埋葬す。然るに洪水と悪霊、近村に祟り、村人病気すること甚だしく、困って村人当地に祠を建立、霊魂を鎮祭する若宮大明神、現在十二所神社と号し、女性の神として崇める。4月14日の夜には、御柱祭、通称「ばば焼祭」と称する、老ばの人形を焼きすてる特異な火祭が現在も行われている。
昭和57年10月吉日
「十二所神社縁起」より(一部訂正)

 地元では有名な説話。「縁起」は少しきれいに書きすぎている。実際に伝わる話は以下のようである。

 松岡村に辿り着いた幸姫が侍女に命じて、老婆に高屋までの道程を訪ねさせたところ、老婆いわく「高屋なら、2日(ふつか)かかる府中(ふちゅう)、7日(なぬか)かかる納屋(なや)、9日(ここのか)かかる九日市(ここのかいち)、十日(とおか)かかる豊岡(とよおか)があって、その先に人をとる一日市(ひといち)がありますで」とこたえたという。
 その後、「縁起」にあるように大水が起こり大被害をもたらしたので、村人は幸姫の祟りと恐れ、老婆を火あぶりにし、幸姫を神として十二所神社に祀り、老婆に見たてたわら人形を焼きすてる奇祭が今日まで伝えられている。
「ザ・たじま」(但馬ふるさとづくり協会発行)より抜粋

 一読、話の異様さに驚嘆する。どう考えても老婆の返事は「虚言」というよりは、単に地名の「語呂合わせ」を節でもつけて謡っているかのようにしか聞こえない。この説話と老婆に見たてた人形を焼きすてる奇祭と単純には結びつかない。
 おそらく古来より流布していた「貴種流譚伝説」(雅成親王豊岡配流)と当時頻繁に起こったと考えれる大洪水や疫病とが結びつき、このような伝承と祭が成立していったのではないかと思える。しかし、単なる「お話」としても老婆の「災難」には大いに同情の余地がある気もするが。

〔略歴〕   「但馬人物誌」より抜粋
雅成親王:1255年没。承久の乱に関わったとして但馬に流され病死。
幸姫:没年不詳。雅成親王の妻とされる。
タグ:神社 伝説
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耳地蔵尊 [日高の先人]

野村の耳地蔵由来
(日高町野字桜岡)

 1800年頃(江戸時代文化の頃)、この地は金山への主要街道で桜の名所として広く知られていた。先人達は、この桜岡の地に慈悲深い地蔵尊を建立して深く信仰を続け親しまれて以来、特に耳の病にご利益を授かるばかりでなく、知識豊かにしかも聞き分けのよい子どもに育つようにと熱心にお参りする人も増え、巾広いご利益を授かる耳地蔵尊として有名になりました。穴のあいた小石は、願い事の一念は岩をも通すの如く、ご利益を授かった、願いが叶ったお礼の印として奉納するものです。
野区会

(現地看板より。一部修正)


 看板の由来書より、かつてこの地が金山へと続く主要な産業道路であったことがわかる。古の通行の跡をたどれる貴重な史跡である。

タグ:地蔵
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下津屋伯耆守 [日高の先人]

伊福城跡(鶴岡区城山)の看板より

伊福城跡看板 頂上の平坦部の広さは、城崎郡の古城跡中の第一位のものかと思われる。三段の塁が構築され、西側は切り立った壁をなし、円山川に臨んでいる。康正元年(1433)~天正8年(1580)の間の城地。城主・下津屋伯耆守は、水生城合戦に加わり末路は不明だとも伝えている。
日高町教育委員会

タグ:先人 看板
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