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奈佐太郎正高 [村岡の先人]

兎塚(うづか)に伝承する由来によると

 昔、森脇という村の大池に人を襲う大蛇が棲んでおり、村人は困っておりました。これを聞いた帝は奈佐太郎正高という人に大蛇を退治するよう命じました。正高が大蛇退治におもむくと、兎伏野に棲む三匹の古兎が邪魔をしたので、まずこの三匹を先に退治してから、大蛇を退治しました。この後、三匹の古兎が化けて出て村人を困らせたので、兎の霊を静めるため三つの塚を建てて祀りました。このときから、この地方を兎塚(うづか)とよぶようになったといわれています。


 上記は香美町村岡区にある、「道の駅ハチ北」にある「兎塚探訪マップ」にある由来書である。地名の由来が丁寧に書かれていて興味深い。確かに周辺に史跡・古墳が豊富にあるようだ。兎塚が近くにあるとのことなので探してみたが、よくわからなかった。代わりに八幡山古墳に登ってみた。

兎塚探訪マップ.jpg 八幡山古墳.jpg

 大蛇や竜と退治する話は洪水・氾濫とのたたかいという解釈もあって各地に残るが、これに兎がからんでくるとは珍しい。どのような解釈がなりたつのか、よく調べてみたい。

タグ:古墳 伝説
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天保の大飢饉 [古文書]

豊岡藩文書 1833~1839年の天保の大飢饉。この未曾有の危機に但馬の時の為政者がどうたちむかったかの貴重な資料が発見された。

 発見されたのは養父市で江戸時代の私塾「立誠舎」のふすまの下張りに使われていた紙から。豊岡市立出土文化財管理センターの調査によって、この古文書が「飢饉救援の豊岡藩文書」であることがわかった。

 天保7年(1836)の文書で豊岡藩が困窮する住民に炊き出しをしたり、緊急雇用事業を実施したことが記されている。

(朝日新聞但馬地方版、11月19日付より)


 現代も別の意味で「大飢饉」が進行中である。耕作できる豊かな農地が次々放棄され、「食料をつくらない」但馬になりつつある。また派遣切りや非正規雇用の横行で若者のはたらく場も奪われつつある。江戸時代のように雇用の確保に全力をあげねばならいない行政当局自体が職員の「人減らし」を実施する。

 われわれはもっと歴史の教訓に学ぶべきであろう。
タグ:古文書
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民営化反対 「風太郎記念館」 [関宮の先人]

 養父市関宮の山田風太郎記念館が養父市の財政難から民営化の危機に直面している。

 市の事業見直しを諮る市民評価委員会が「(風太郎記念館は)民営化すること」と市長に答申したため、記念館指定管理者の「山田風太郎の会」が反論を発表した。
 同会によれば市民評価委員会からは聞き取り調査もなく、資料提出も求められていないという。民営化は適切ではなく、市直営が望ましいと同会は述べている。

 評価委員会が問題にした市からの指定管理料は年間約280万円である。
(朝日新聞10月30日付より)


 まあ他市のことだから、あれこれいう筋でもないが、あれだけ全国的に知られ、但馬の「先人記念館」としては比較的成功している施設であるのに、わずかの財政補助をおしんで「民営化」とは政治家・行政マンとしてははずかしいのではなかろうか。また「評価委員」も少なくとも関係者や利用者、風太郎ファンの声に謙虚に耳を傾けてもらいたいと思う。
タグ:記念館
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桜井舟山 [出石の先人]

瀬戸谷皓著「但馬の古代」 但馬の考古学黎明期に活躍した先人である。

 出石藩の学者であった。今から250年くらい前の人である。養父市大薮にある大薮古墳群について記述している。

 その内容は「大薮付近でも塚を発いて遺物を得たと伝えているが、もし事実ならこれらの窟(大薮古墳群)は上古尊者の墓であろう」と記している。

 「当時の認識としては卓越したもの」と紹介されている。

 古来都や半島との関係から遺跡や遺物の豊富であった但馬では早くから考古学的に発想が見られたようである。


但馬文化協会発行、瀬戸谷皓著「但馬の古代」(写真)より。

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フランスから来た鉱山師 [生野の先人]

生野の鉱山師.jpg 観光・生野銀山の金香瀬坑の入口の石造りの坑口は明治初期、鉱山の近代化のためフランスより招聘されたジャン・フランソア・コァニェが築造したフランス様式の坑口である。
(坑道入口の案内板より)


〔略歴〕
ジャン・フランソア・コァニェ
 1835年、フランス、ロアール州サンテチェンヌ生。鉱山師。1867年、薩摩藩に招かれる。1868年、明治政府と雇用契約、生野に到着(お雇い外国人第1号)。生野鉱山の機械化に尽力。1878年帰国、1902年没。
「鉱山資料館」の説明文より抜粋


 資料館には1回の調査では勉強しきれないくらいの量がある。今回もまた「鉱物資料館」は回りきれなかった。次回調査の楽しみとしたい。
タグ:写真
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生野義擧日記 [生野の先人]

「生野義挙日記」謄写版刷りの表紙 6日の生野鉱山視察の成果のひとつ。生野銀山売店で鉱山関係書籍とともに販売されていた。売価、1000円。

 太田虎一著「生野義擧日記」である。1941年にガリ版刷りで小部数出版された。生野の変の経過を時系列で日記風にまとめた資料集である。1993年、生野町文化財委員会の手により、復刻版として印刷出版された。原書は「太田虎一編」とされているが、オリジナリティが認められ復刻版は「太田虎一著」とされている。
 左の写真は「復刻版」におさめられていた原書の表紙のコピーである。

 今後、「生野の変」を調べていく資料のひとつとして参考にしたい。



太田虎一氏の写真〔略歴〕
太田虎一:1894~1948。生野尋常高等小学校・奥銀谷尋常小学校訓導など歴任後、生野町銀山区会議員、生野町収入役。
 教員ならびに収入役を務めるかたわら郷土史研究を続け、「生野誌」編集・執筆に関わり、「生野義擧日記」はじめ数々の郷土史関係論文を執筆。
(復刻版「生野義擧日記」より抜粋して経歴紹介。太田氏の写真も同書より)


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史跡・生野銀山 [生野の先人]

生野銀山.jpg 21年度「但馬ふるさとづくり大学」第2回講座は「史跡・生野銀山」であった。
 この史跡は昨年「但馬先人史跡探訪会」で視察済であったが、内容を「但馬人物誌」に反映させることはできなかった。
 今回は現地のボランティアガイドさんがついてくれて、詳しい説明を聞くことができたので、たいへん勉強になった。とりわけ前回はあまりのハードスケジュールに根をあげて見ることをしなかった「露天掘り」の現地を視察できたことは収穫であった。
 また前回はうっかりと気づかなかったが、明治期に生野銀山が近代的鉱山に生まれ変わる際にフランス人鉱山技師の貢献があったとのことで、資料館に展示がある。貴重な先人の苦闘の記録である。詳しく調査して機会があればいずれ紹介したい。
 露天掘りの現場を観光施設としているところは全国的にも珍しいそうだ。たいてい深い山の中にあり、坑道までは見せても、露天掘りまではなかなか見れないそうだ。
 また石見銀山跡は世界遺産に指定されたが、それより規模の大きい生野はなぜ指定されなかったかというと、石見銀山は昔の坑道跡や昔の町並みが比較的よく保存されているが、生野は明治期に近代化したので、規模は拡大したが、昔の跡は石見銀山ほどは保存されていない、近代化がかえってあだになっている、とはガイドさんの話であった。
 生野銀山のボランティアガイドを依頼するには事前に予約してください、とのことであった。ただ見て回るだけでなく、要所要所で説明してもらえるので、このボランティアガイド制度はぜひ、多くの人に活用していただきたい。
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十二所神社 [日高の先人]

 十二所神社は豊岡市日高町松岡の社である。

十二所神社 承久2年、後鳥羽院第3皇子・雅成親王、但馬高屋村に配流さる。御妃・幸姫、懐妊の身にて御跡を慕い、松岡村に辿りつき、俄に皇子を分娩されるも偶ゞ老ばの虚言により、道長く険しきを悲しみ、生れたばかりの皇子を石の上に寝かせ、死後南風になり高屋に達しましょうと、円山川に入水された。御骸は松岡村に埋葬す。然るに洪水と悪霊、近村に祟り、村人病気すること甚だしく、困って村人当地に祠を建立、霊魂を鎮祭する若宮大明神、現在十二所神社と号し、女性の神として崇める。4月14日の夜には、御柱祭、通称「ばば焼祭」と称する、老ばの人形を焼きすてる特異な火祭が現在も行われている。
昭和57年10月吉日
「十二所神社縁起」より(一部訂正)

 地元では有名な説話。「縁起」は少しきれいに書きすぎている。実際に伝わる話は以下のようである。

 松岡村に辿り着いた幸姫が侍女に命じて、老婆に高屋までの道程を訪ねさせたところ、老婆いわく「高屋なら、2日(ふつか)かかる府中(ふちゅう)、7日(なぬか)かかる納屋(なや)、9日(ここのか)かかる九日市(ここのかいち)、十日(とおか)かかる豊岡(とよおか)があって、その先に人をとる一日市(ひといち)がありますで」とこたえたという。
 その後、「縁起」にあるように大水が起こり大被害をもたらしたので、村人は幸姫の祟りと恐れ、老婆を火あぶりにし、幸姫を神として十二所神社に祀り、老婆に見たてたわら人形を焼きすてる奇祭が今日まで伝えられている。
「ザ・たじま」(但馬ふるさとづくり協会発行)より抜粋

 一読、話の異様さに驚嘆する。どう考えても老婆の返事は「虚言」というよりは、単に地名の「語呂合わせ」を節でもつけて謡っているかのようにしか聞こえない。この説話と老婆に見たてた人形を焼きすてる奇祭と単純には結びつかない。
 おそらく古来より流布していた「貴種流譚伝説」(雅成親王豊岡配流)と当時頻繁に起こったと考えれる大洪水や疫病とが結びつき、このような伝承と祭が成立していったのではないかと思える。しかし、単なる「お話」としても老婆の「災難」には大いに同情の余地がある気もするが。

〔略歴〕   「但馬人物誌」より抜粋
雅成親王:1255年没。承久の乱に関わったとして但馬に流され病死。
幸姫:没年不詳。雅成親王の妻とされる。
タグ:神社 伝説
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経王寺の詩 [出石の先人]

経王寺4月の春・・・・

   冬の名残り雪が舞う日あれども・・・・・
静かに春の香はただよう・・・・・
遙かなり ふるさとの山河

いつの日にも夢みる
ふるさとに君の想い出が眠っている
心はいつも彼の地に立ちかえる・・・・

花冷えの春・・・
淡雪舞う午後おそく



 経王寺(きょうおうじ)の詩(うた)、と読みます。数年前に興にかられるまま、ビジュアルブック(映像詩)のフレーズとして自作したものです。

 その後縁あって、「但馬人物誌」の編集に関わる中で、経王寺が非業の死を遂げた勤皇の志士、多田彌太郎の墓地のある寺だと知った。詩と映像が何となく彌太郎の心情にも共鳴する気がしてくるから、不思議なものである。

経王寺境内にて


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赤穂義士の妻、直筆の手紙 [その他の先人]

赤穂義士の妻の手紙 赤穂義士の小野寺十内の妻・丹(たん)直筆と見られる手紙が、豊岡市城崎町の愛好家によって発見された。  手紙を調べた豊岡市出土文化財管理センターによれば「丹の直筆の可能性が高い」とのこと。  宛先は「めうゑい(みょうえい)様」とあり、年は書かれていないが日付は9月27日となっている。  「めうゑい」については、大石内蔵助の親類の大石良総の妻が仏門に入って名乗った妙栄か、義士の片岡源五右衛門の母か義母とされる「片岡長寿院妙栄□尼(□は不明)」であろうと推測されている。
5月14日付朝日新聞但馬版記事より(写真も)

 さすが大石りくのふるさと・豊岡である。赤穂義士を研究する人材にはことかかない。いろいろな事実が豊岡で明らかになるものであると、感心することしきり。
タグ:手紙
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