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多田彌太郎 [出石の先人]

多田彌太郎顕彰之碑  多田彌太郎
 浅間トンネル出石側にある多田彌太郎の顕彰碑。

 「生野の変」で倒幕の兵を挙げ失敗。逃亡中この地で惨殺された出石藩勤皇の志士である。(「但馬人物誌」略歴より)

 「生野の変」についてはよくわからない点もある。池田草案の去就(「挙兵」へ参加を拒否)についても評価が割れるところである。
 しかし、ここ浅間峠は往古も今も交通の要衝であるところに変わりはないようだ。

 かつて合併前の旧日高町は「但馬の新十字路」と称し、「日高に明石大橋なみの超長大橋をかける」と豪語し、村岡~神鍋(日高)~城下町・出石を結ぶルート上に地元住民の反対を押し切って「高架道路」をつくろうとしたことがある。現在、この「日高都市計画道路」は計画休止中である。この先どうなるかは未定だが、国・地方あげて財政難の折り、住民の反対もあり、産業上、現豊岡市にとってさほど重要とも思えない「高架道路」計画が復活するとも思えない。

 京阪神から出石への通行ルートに、また出石から村岡・湯村方面へもこの浅間峠がよく使われる。マイカーでこのルートを利用される方は、ぜひ浅間トンネル出石側の「顕彰碑」をみてほしい。

 「生野の変」をどう見るかは別として、やはり「歴史の流れ」、「兵(つわもの)どもが夢のあと」を実感できる地である。

 池田草案の評価、また「生野の変」の詳細については、別途深めてみたい。
 また多田彌太郎顕彰碑は出石城跡にも存在するので、こちらも次の機会には紹介してみたい。
タグ:先人
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船穂足尼 [朝来の先人]

船之宮古墳(県指定文化財)
昭和36年8月23日指定

船之宮古墳  この古墳は円山川左岸の段丘の上に築造された5世紀後半(約1500年前)の前方後円墳である。但馬地方で第2番目に大きい規模の機内大王墓の形態を有する堂々たる古墳である。
 昭和55年度、武庫川女子大学考古学研究会により測量調査が行われ、古墳の外形や現状の規模等が明らかにされた。その後、昭和62年度から平成元年度にかけて周濠・墳丘の確認調査が行われた際、調査トレンチ(溝)から墳丘斜面の葺石・根石が築造当時のまま現われ、その測量から全長86m、前方部幅50m、後円部径47m、高さ8mの規模を持ち、三段築成で、くびれ部に造り出しを持つ大型の前方後円墳であることが確認された。周濠は楯形であり、周濠外壁にも墳丘斜面と同様、葺石が施されていることが明らかにされた。なお、周濠の外側からも埴輪等が出土することから古墳周辺にも何等かの遺構のあるものと推定される。
 古墳の前方部は北側にあり、上部は中世末期に建立された八幡宮によって変形され、東側は旧国道312号線の下に埋没している。西・南側には周濠の遺構が今も残っている。埋蔵主体は不明であるが、但馬の国造と伝える彦座王(ひこいますみこ)の5世の孫である船穂足尼(ふなほそこね)であるとの伝承もあるが詳らかではない。しかし、大和朝廷と何らかのかかわりのある国造級の豪族の墓であると思われる。

     平成元年12月
朝来町教育委員会
(現地看板より)


 大和朝廷の勢力圏を示すと思われる貴重な古墳である。4~5世紀にかけて但馬では国津神系(出雲族あるいは土着の旧勢力)と天津神系(天孫族つまり天の神の子孫を自称するおそらく大陸からの渡来民族)とのせめぎ合いの地であったようだ。天日槍(あまのひぼこ)伝説のように、天津神の対抗勢力の伝承を多く持つ北但と大和の影響強い南但という印象が強いが、詳細は不勉強でよくわからない。
タグ:古墳 先人
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耳地蔵尊 [日高の先人]

野村の耳地蔵由来
(日高町野字桜岡)

 1800年頃(江戸時代文化の頃)、この地は金山への主要街道で桜の名所として広く知られていた。先人達は、この桜岡の地に慈悲深い地蔵尊を建立して深く信仰を続け親しまれて以来、特に耳の病にご利益を授かるばかりでなく、知識豊かにしかも聞き分けのよい子どもに育つようにと熱心にお参りする人も増え、巾広いご利益を授かる耳地蔵尊として有名になりました。穴のあいた小石は、願い事の一念は岩をも通すの如く、ご利益を授かった、願いが叶ったお礼の印として奉納するものです。
野区会

(現地看板より。一部修正)


 看板の由来書より、かつてこの地が金山へと続く主要な産業道路であったことがわかる。古の通行の跡をたどれる貴重な史跡である。

タグ:地蔵
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風太郎の落書き [関宮の先人]

 養父市関宮地域局交差点前に「山田風太郎記念館」がある。風太郎とは「忍法帖シリーズ」などでしられる関宮町出身の作家である。

 「記念館」で山田風太郎が旧制豊岡中学時代に落書きした教科書を展示した企画展が開かれている。

 教科書は風太郎の同級生の遺族が寄贈したもののようだ。中に虚無僧や浅野内匠頭の絵が描かれているという。絵心もあった作家の多芸な一面がしのばれ、興味深い。

 企画展は5月10日まで。
4月15日付朝日新聞但馬版より



 それにしても大石りくの故郷・豊岡で忠臣蔵ゆかりの人物を描くとはなかなかおもしろい。

タグ:先人 企画展
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一瀬粂吉 [出石の先人]

一瀬粂吉の記念碑出石高校赤門にある一瀬粂吉の記念碑。

 赤門とは何か、インターネットで調べたがよくわからない。出石藩時代の遺物らしい。赤門を作ることを許されていた一族の出である一瀬粂吉が戦前に建設し寄贈したものだそうだ。学校の敷地内にありながら所有者は「豊岡市」という不思議な建築物である。東大にも「赤門」があるが、何か関係でもあるのだろうか。初代東大総長・加藤弘之生家がすぐ目の前というのも因縁を感じないでもない。

タグ:先人
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宮城主膳 [浜坂の先人]

清富陣屋跡 「宮城主膳は二方郡一円を領し、寛永四年(一六二七)芦屋陣屋よりこの地に移り陣屋を構え、寛永二十年逝去し、後嗣なき故をもって家名は断絶、所領は没収され、陣屋は廃止された。
 宮城公は江戸幕府に仕え、将軍の側近で活躍すると共に、清冨村と町だてし、領内の村切れを推進し、岸田川をつけかえたりして、新田をひらくと共に、陣屋の防禦を図るなどの事跡が伝えられている」
「清冨陣屋跡の碑文」中由緒より


 広大な敷地が残されており往時が偲ばれる。近くには但馬西国の相応峯寺があり、陣屋との関係が興味深いがよくわからない。
タグ:先人
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『但馬人物誌』印刷までの裏話 [報告]

『但馬人物誌』の編集に当たっての裏話をすると、すべて原稿や写真は担当で取材して書き上げたものですが、それをDTPとかのソフトで変換して印刷にまわすのを、テクニカルサポーターの伊藤さんに引き受けていただきました、ワードに撮ったまま写真を添付していたもので、大変迷惑をかけてしまいました。最終の刷り物が送られてきても、DTPのものは動かすことができず、間違いを何ページの何行とメールで依頼するより外なく、とんだど素人を相手で、大変お世話になったなと思っています。何度も指摘を受け訂正もしました。他人に見てもらうものを書くことは大変なことで、自分の思い込みで書いてしまうと、何回見直しても自分では気付かないものだと分かりました。伊藤さんには感謝の限りです。
ところで印刷が出来上がってから、またもや印刷ミスが見つかりました。下記に表示してとりあえずお許しをお願いいたします。

『但馬人物誌』                         誤             正
 p40         22行目   中庭煖華     大屋町蔵垣       大屋町大杉
 P40         23行目   正垣半兵衛   大屋町大杉       大屋町糸原 
 p55   中庭煖華10行目             「中庭檀煖華       中庭煖華
 p55         12行目             中庭段煖華        中庭煖華
 p55         14行目             中庭段煖華        中庭煖華
 p58   原 六郎 3行目              新藤丈衛門        進藤丈衛門
 p67   小谷澄之 3行目             和田山町          旧朝来町

by 田舎者


タグ:田舎者
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歴史と学びの小径 [出石の先人]

歴史と学びの小径 出石の先人史跡を調査していて思わぬ発見があった。出石城から谷山方面へかけて「散策路」が整備されている。
 出石城横の諸杉神社からスタートして桜井勉生家跡、弘道館(藩校)跡公園、大友工生家、岩鼻稲荷神社、経王寺、加藤弘之生家、赤門(一条粂吉記念碑)、伊藤清永生家、吉祥寺、石部神社など史跡が目白押しである。

 観光スポット出石城から少しはずれた位置に案内板があり、一般観光客には目立ちにくい場所である。なおかつ先人史跡中心という地味なテーマであり、観光の目玉とはしがたい気がする。それでもなおかつ、このルートを整備し、維持してきた出石住民の心意気が伝わる企画である。

 全部見て回ると、おそらく半日はつぶれるであろうが、先人ファンにはこたえられないコースである。

<関係先人略歴>
桜井 勉:1843~1931。出石藩弘道館長。徳島・山梨・台湾新竹県知事。
大友 工:1925~  。別所毅彦とともに巨人のエースとして活躍。
加藤弘之:1836~1916。東京大学総長をはじめ、官界学界の多数の官職を歴任。
一条粂吉:1870~1943。文部省に勤務の後、三十四銀行副頭取、三和銀行取締役。
伊藤清永:1911~2001。画家。女性美を追求した作品多数。

「但馬人物誌」より

タグ:看板
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下津屋伯耆守 [日高の先人]

伊福城跡(鶴岡区城山)の看板より

伊福城跡看板 頂上の平坦部の広さは、城崎郡の古城跡中の第一位のものかと思われる。三段の塁が構築され、西側は切り立った壁をなし、円山川に臨んでいる。康正元年(1433)~天正8年(1580)の間の城地。城主・下津屋伯耆守は、水生城合戦に加わり末路は不明だとも伝えている。
日高町教育委員会

タグ:先人 看板
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但馬人物誌 [報告]

90419冊子表紙.jpg
 第4期但馬夢テーブル委員会での活動報告集「但馬人物誌」の紹介です。


〔目次〕

但馬人物誌編集に当たって

第1章 豊岡市、新温泉町
 1-1 マップと略歴
 1-2 近世但馬発展の中心、豊岡市
 1-3 志賀直哉も愛した、城崎町
 1-4 海上交易で栄えたまち、竹野町
 1-5 文学のふるさと、新温泉町
 1-6 但馬先人史跡探訪会で但馬各地を回って思ったこと
 1-7 主な参考文献・史料

第2章 豊岡市日高・出石・但東町、香美町
 2-1 マップと略歴
 2-2 植村直己生誕の地と古代史跡の宝庫を巡る
 2-3 但馬のシルクロードを往く
 2-4 郷土史や先人研究で地域に元気を
 2-5 先人を愛する但馬人
 2-6 近現代の激動の歴史 豊岡市但東町久畑
 2-7 文献、資料

第3章 養父市、朝来市
 3-1 マップと目次
 3-2 養父市の先人
 3-3 朝来市の先人
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